誇り、無念、後悔、怒り。轟沈する「大和」の最期で何を想ったのか? 戦後75年の今、日本人として考えるべきこと
戦艦「大和」の生涯~構想から終焉まで~⑤
■「我々は死に場所を与えられた」沖縄特攻作戦
4月1日、米軍は沖縄本島への上陸を開始、同日中に飛行場を占領した。日本陸海軍は、持てる戦力を結集して総反撃を計画するに至った。
6日、陸海軍機挙げての航空特攻が、沖縄周辺の米艦船に向けて実施された。
同日「大和」は航空特攻に呼応する形で、唐突な沖縄突入作戦を下令されたのである。伊藤司令長官は、「我々は死に場所を与えられた」と全将兵を結束させた。「大和」と第二水雷戦隊から成る10隻の水上特攻艦隊は、内海西部の徳山沖を出撃した。
米軍はこの動きを、通信諜報と哨戒潜水艦の目視報告によって知り、迎撃態勢を整えた。米戦艦部隊は出撃命令を受け、空母部隊は「大和」を求めて北上を開始した。
6カ月前、航空特攻は「大和」以下の水上艦隊のレイテ突入を成功させるために誕生した。今「大和」は、航空特攻の成功を期して一路沖縄へ向かっている。
7日早朝、九州沖を含む海上は、どんよりとした厚い雲に覆われていた。
米索敵機は、厚く低く垂れ込めた雲の切れ間に「大和」を中心とする日本艦隊を目撃した。「大和発見」の報に沖縄沖に展開中の空母12隻から第一次、第二次攻撃隊を含む367機が発進した。
「大和」を中心に輪型陣を組む特区艦隊は、距離100キロに敵編隊を探知、敵襲を予期し沖縄への最短距離をとる。
米攻撃隊は天候不良の中、八木アンテナ使用の捜索レーダーに導かれて日本艦隊上空に迫まった。
1230~1250、米攻撃隊は急降下爆撃を開始した。戦爆雷混合の34機は、「大和」にロケット弾112発、爆弾36個、魚雷8本を発射ないしは投下した。「大和」は後部に数発、左舷に被雷するも全速力27ノットをもって沖縄へ針路をとる。
引き続き1258~1320、60機による少数分散の波状攻撃が「大和」を狙った。爆弾27個、魚雷46本は、右に旋回する「大和」に襲いかかった。艦は左舷に連続被雷して大きく傾く。「大和」は高角砲24門、機銃150挺で反撃した。有賀艦長は防空指揮所に仁王立ちとなり、対空戦の指揮を執っている。
本艦に旗旒信号が揚った。「決戦海面を180度とす」。
あくまでも沖縄を目指す「大和」に、さらに攻撃は続く。
1330~1420、25機が「本艦」に爆弾30個、魚雷7本を投下、ないしは発射した。「大和」は後部副砲付近の火災と、左舷への多数の被雷により速力は低下している。「復原の見込みなし」。有賀艦長は「総員退艦」を決意した。
1423「大和」は左から急激に転覆すると、弾火薬庫の誘爆で二つに折れ、その巨体は一瞬にして海の藻屑と消えた。
●乗員3,300余名中、生存者は276名
伊藤司令長官、有賀艦長は、艦と運命を共にしている。
乗員3,300余人の運命は紙一重だった。弾火薬庫の爆発がなければ生存したであろう多くの者が衝撃による水中爆傷で死に、逆様になった艦の中甲板厚さ20センチの甲鈑は楯となり衝撃を遮断、海中深く船体の沈下と共に吸い込まれた者が爆発によって吸引力のなくなった渦から脱出、ポッカリ浮かび上がって生を得た。3300余人中、生存者276名。これが大和の最期であった。
沖縄突入作戦は中止。その栄光を後昆に伝えんとする「大和」の最期は、同時に日本海軍の終焉でもあった。
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『戦艦大和建造秘録 【完全復刻改訂版】[資料・写真集] 』
原 勝洋 (著)
なぜ、「大和」は活躍できなかったのか?
なぜ、「大和」は航空戦力を前に「無用の長物」だったのか?
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2020年、「大和」轟沈75周年
世界に誇るべき日本の最高傑作、戦艦「大和」の全貌が「設計図」から「轟沈」まで、今ここによみがえる!「米国国立公文書館Ⅱ」より入手した青焼き軍極秘文書、圧巻の350ページ。さらに1945年4月7日「沖縄特攻」戦闘時[未公開]写真収録
【大型折込付録】
大和船体被害状況図(比島沖海戦時)
大和・復元図面 ①一般配置図 ②船体線図/中央切断図/防御要領図